随筆 「竹の音」

 

戦いを止めた女性たち  グルジアの場合
               高嶋紀子
  2003年12月
 
 9月の始め、衛星テレビと、英字新聞からきな臭いにおいが漂ってきた。黒海の東、人口500万人強のグルジアがもめているという。1991年に旧ソ連から独立した若い国だ。民衆が首都トビリシの中心部を埋め尽くし、国会が占拠され、日本の一般紙でも大きく報道されるようになった。内戦になるのではないか。ユーゴ紛争のようになれば、犠牲になるのは子どもや年老いた人たちだ。カーハさん一家は大丈夫だろうか。心配しているうちにシュワルナゼ大統領が引退することが決まり、39歳の女性リーダーが暫定政府の代表となることが報道された。あー、よかった。犠牲者は出ていない。無血革命だった。
 新聞の片隅に、「緊張の間にグルジアの女性達が兵士と警察官に真紅のバラを一本ずつ配った」という記事を見つけたとき、「グルジアらしい。きっとケティたちだわ」と思った。早速ケティにもらったビデオをウィメンズ・メッセージズの勉強会で見る。
「ホワイトスカーフ ムーブメント(白いスカーフ運動)」というタイトルの映像は情感あふれるピアノ演奏をバックに、映画プロデューサーであるケティのナレーションで始まる。「古代、グルジアでは、女達がかぶっている伝統衣装の一つである白いスカーフを頭から取って、闘っている男達の間に投げると、戦いが治まるという言い伝えがあります」
 1993年、旧ソ連との国境で内戦が起こったとき、ケティはその伝説を実行したのだ。夫や兄弟や息子を戦場で死なせたくないと、ケティはテレビを通じて全国の女性たちに呼びかけた。「女性達よ、首都トビリシに集まってください。戦地へ向かいましょう。男達に戦争をやめさせましょう」隣接するアルメニアやアゼルバイジャンからも女性たちは続々と広場に集まり、三日をかけて二千人の女性たちが列車で戦闘地に向かうことになった。列車の通路では白いスカーフをつなぎ女性たちの連帯のしるしとした。途中の駅で、戦死した兵士の葬儀にも参列。大声で嘆き悲しむ女性の様子は壮絶だ。戦線に近づくと、前線司令官が駆けつけ、思いとどまるように説得する。司令官が帰った後女性達は相談し、やはり前進を決める。列車の中の、彼女たちの不安な様子、涙を流しながらの悲壮な決意。
 ついに戦闘地に到着。荒れ果てた病院。息子と再会できた母親がいた。しかしその息子は3日後の戦闘で死んだことを後で知る。戦いをやめるよう兵士達に説得する女性たち。彼女たちは戦いの中心地へ行こうとするが、司令部は断固として拒否。命の保証をしないという強硬姿勢に、ここが限界と、引き返すこととなった。戻る列車の中での女性たちの深い疲労感、涙。程なく内戦はおさまり、彼女たちの勇気はグルジア国内だけでなくヨーロッパ、アメリカで大きく報道された。ニューヨークではその年の世界の女性100人の一人としてリーダーのケティが選ばれ、賞賛された。同行して撮影されたドキュメンタリーフィルムは、数多くの賞をとり、日本でもぜひ見て欲しいと高嶋に託されたと言うわけである。彼女の願いを伝えるために、来月このフィルムの上映会を行うことが決まった。
 世界各地で戦争の火種は止まない。イラクの独裁者が逮捕されたとしても、反米テロリストたちが力をゆるめるとは限らない。そのさ中へ向かおうとする、自衛という名目の日本の兵士達の前に投げられる白いスカーフはあるだろうか。

 二つの意見  高嶋紀子


 私は人の話を聞くのが好きだ。あっと驚くおもしろい話がいっぱい聞けるから。自分だけに留めておくのがもったいなくて、それを文にしたり、人に伝えるようになった。
 毎週金曜日の朝、英語の勉強会は知らない世界の宝庫だ。北朝鮮の英文記事を読みながら、自分たちの子ども時代の貧しかった生活に話が及ぶ。「庭でおやつのサツマイモを食べていたら、飼っていたニワトリが飛びかかってきて、取られてしまって泣いたの」と、今では考えられない、気の弱い子ども時代を高嶋紀子が言う。すると高嶋より(多分)うんと若いKさんが「ごちそうの肉が出てね。おいしい!って食べた後、かわいがってたうさぎを探してたら、さっき食べただろ?っていわれた」「え〜〜っ!!」と一斉に声があがる。「しばらくウサギは飼えなかったんじゃない?」「ううん」と首を振ったKさんは「それが山間部で育った私の生活だったから」と、涼しい顔。さらにウサギの皮はつるりとむけるだの、ニワトリの絞め方など、今では考えられない話が飛び交い、本題に戻る。
 英和対訳誌、ウィメンズ・メッセージズの編集をし、英語でやりとりしていると、さらに驚く国際情報が飛び込んでくることも多い。事実を確かめに海外へも出かけ、国際会議などを取材していると、思いがけずVIPに出会うこともしばしばだ。責任ある仕事をしている人たちの共通点は、分け隔てなく誰にもやさしく接してくれること、そしてとても率直なこと。だからおもしろい話が聞ける。まずはVIPの仕事ぶりを記事として報道し、人柄や、興味深い周りの情景などはエッセーなどで紹介することも多い。
 ある日、夕方にも続けている英語勉強会でN氏やM氏が言った。「あなたの海外取材経験をこの場でもぜひ話して欲しい。」「え〜っ、書くときは言葉を選べるけど、話すとなると、うれしがりだとか思われたら・・」こんなときには急に臆病になる高嶋だ。「いや、あなたしかできない貴重な経験をしているのだから、エッセーに書いたり、話したりして、さらに多くの人に伝えてほしい。それがあなたの役目ですよ」・・・そういえば大学や、府、市民講座でも、毎回希望が多く好評なのが高嶋の海外での取材話だ。
 ただ物事には必ず二面性があって、厳しい意見がくることもまれにある。感情的な意見は匿名だ。一方で「ここはこのようにしたらいいですよ」「この部分をもっと説明して欲しかった」と、具体的に指摘してもらうと、ほんとうにありがたい。そういう場合は必ず名前、連絡先を書いてくれるので表に出せない事情も説明できる。より質の高い内容を目指せる。物事の二面性を同時に満たすことは難しいけれど、厳しい意見にはより謙虚に耳を傾けたい。責任を持って指摘してくれる人には素直に、無理なときはその旨説明することが、反対意見への自分のやるべきことかなと、思っている。

介護保険を生きた人    高嶋紀子  

      
 初めてYさんに会ったとき81歳の彼女は涙をためて「私は負けない」と肩をふるわせた。大阪市内、ある特別養護老人ホームの一室でのことだ。ティッシュペーパーがなくなったと、同じ部屋のOさんから盗みの疑いをかけられている、という。Yさんは深く傷ついていた。
  介護保険市民オンブズマン第一期生として、筆者は月二回施設を訪れているが、幸いヘルパー1級の資格も以前に取得し、一人暮らしの高齢者をお世話をした経験もある。どんなことを聞いても、余裕をもって対応できるのはありがたい。「そういうことはよくあることです。施設へも伝えましょうか?」Yさんも了解し、施設の担当者に伝えると、「Oさんの家族から、Oさんは高齢による被害妄想がある、と聞いています。Yさんには心配しないよう伝えましょう」周りの皆がYさんを理解していることを感じて、彼女は落ちついて明るく暮らすようになった。それと同時に二人一組で訪れる私たちオンブズマンの姿を見かけると、「話を聞いてもらいたい人はおいで。いまオンブズマンがきているよ」と自立棟の仲間に呼びかけてくれるようになった。
  「告発するのではなく、利用者と施設の橋渡しを!」と、オンブズマンの研修でたたき込まれた手法は、日本型オンブズマンとして高い評価を得つつあり、その効果を現場で実感できるのは何よりの喜びだ。
  Yさんは特別養護老人ホームに入居したとき、寝たきり寸前だったという。しかし新設されたばかりの特別養護老人ホームへ入居し、職員と共にこの施設を築き上げる、という思いはYさんを元気づけたようで、やがて立ち上がり、一人で歩けるようになった。そして昼下がりには山のようなタオルをせっせとたたむYさんの姿を見かけるようになった。「こんなに元気になったんだから私の仕事としてやらせてもらってるの」「普通の人と変わりませんね」「そうなの。うれしいんだけど、それが心配なの。次の介護認定で、どこも悪くなかったらここを出なくちゃいけないでしょ?でも私は終の棲家のつもりでここへ来たから、今更戻るところもないのよ」「だから私は出ていけと言われても、どこかにしがみついて抵抗するつもり」彼女は会うたびに言い続け、私たちオンブズマンはYさんの思いを施設に伝え続けた。
  4年後晴れた日の朝、突然の電話で「Yさんが亡くなりました。心臓発作でした」と聞いたとき、「よかった、彼女は望み通り施設で生を終えることができた」という思い。Yさんらしい明るい笑顔の写真と、小さい骨壺の前で施設のM主任は「Yさんが亡くなっても心に残っているから寂しい気がしないのよね。」と言った。
 はっきり主張すること、それが介護保険。主張し続ければ願いがかなう・・こともある。
 彼女は介護保険を生き、多くのことを教えてくれた。

  グラウンドゼロを耐えた球  高嶋紀子

 ニューヨークに着いて2日目。雨が強くなってきた。深いビルの谷間を歩く。急に視界が開け、鉄骨で組まれた黒く太い十字架が目に飛び込んできた。世界貿易センターへのテロ攻撃で犠牲になった3000人の人々への追悼の思いとともに、現場の人たちは工事を続けているのだと、胸をつかれる。礎石がわずかに見えた。グラウンドゼロに面した向かいのビルは、数部屋がそっくり空洞になっていて、あのビルもまだ傷が癒えていないようだと、傷の深さを実感する。通路の角には星条旗をバックに数々の品物が雨にぬれていた。ピンで留めただけの笑顔の男性の写真、メッセージカード、花束、野草のリース、多数のろうそく、道路には赤い小さい三輪車など。どのメッセージカードにも悲しみと共に「あなたの死をむだにはしない!」と、強い決意が述べられていた。苦難にあっても、くじけることなく前に進もうと、はっきり表明するアメリカ人の気質がここにも表れている。
 グラウンドゼロから歩いて15分位でバッテリーパークだ。今回は自由の女神にぜひ間近で挨拶せねば、とクリントン砦でチケットを買って船に乗った。港を離れるとさっきまでいたマンハッタン島のビル群の全景が見える。110階建ての双子のタワーは今は見られない。強いアメリカの象徴だった世界貿易センタービルが崩壊して、自分たちのプライドを傷つけられたと、多くのアメリカの人たちは思っている。テロ犯人を支援した(と考えて)、しゃにむにイラク攻撃へ走り、それを多くのアメリカ国民が支持したのだろうか、と考えているうちに、自由の女神のあるリバティ島へ到着した。
 足元から見上げる自由の女神は巨大だ。右手に高々とたいまつをかかげ、左手には?・・
独立宣言を持っている。自由と独立が最優先のアメリカで、9・11のテロ攻撃は、自由と自主への耐え難い侵害だったのだろうと、女神像を見ながらまた考える。(アメリカも他国に同じことをやっているように見えるんだけど・・・)
  女神に挨拶をしてバッテリーパークへ戻ると、鈍く金色に光る大きい金属の球が見えた。よく見ればあちこち不自然にくぼんでいて、球の前には低く炎が燃えている。横にある黒い石の板の碑文を読んでいくうちに、この「球体」という名の彫刻は世界貿易センターが完成してから30年間貿易センタービル前広場に置かれていたということがわかった。
  「2001年9月11日のテロ攻撃でこの彫刻も被害を受けたが、この国の希望と不屈の精神の象徴として、試練に耐え抜いたのである」と、碑文は述べている。「球体」は悲劇により犠牲となった人々への慰霊碑として、一時的にここに置かれた。「球体」の前で燃えている火は、犠牲者をしのんで、一年後にともされたという。「亡き人たちの魂と犠牲は永遠に忘れ去られることはないであろう」と、碑文は結ばれていた。世界貿易センタービルへのテロ攻撃を体験した、この彫刻と、炎、碑文は現在建築中のビルが完成すれば、歴史の証人としてもとに戻されるのだろう。私は球体や碑文を写真に撮った。帰国後ウィメンズ・メッセージズの勉強会で碑文を訳し、その後行なった報告会で英文と和訳がスタッフのMさんとKさんにより情感をこめて朗読された。碑文の横に和訳も置いてもらえたらいいね、という提案により、訳文を
近々ニューヨーク市へ送る予定だ。

  世界の真実はどこに?   高嶋紀子


 文化遺産がほとんど破壊された国からやってきました」開口一番アフガニスタンの情報文化大臣、サイド・マクデューム・ラヒーン氏が述べて、場内はシーンと静まりかえった。「共存の時代―博物館の国際協調をめざして」という滋賀県、信楽のミホミュージアムで行われた国際会議でのことだ。他のパネリストといえば、タジキスタン古代博物館館長だとかオランダ、アメリカ、エジプト、中国などの博物館、美術館のトップが勢揃い。日本も由緒正しく奈良国立博物館館長の鷲塚氏が、「海外からの重要な美術品は、飛行機の部品を運ぶ特別の飛行機で運び、操縦席は機体の下にある」と、興味深い話をしてくれた。
 日本と対局の状況にあるアフガニスタンでは、23年間続いた戦乱で、貴重な美術品が徹底的に破壊され、破片が海外へ流出しつつあるという。特に1991年から95年にかけてテロリストの攻撃でカブル博物館のカニシカ王の像やアリアナ王朝の美術品が粉々になった。修復の専門家は殺されたり、逃げ出したり、残っている人は年をとりすぎている。今アフガニスタンには展示できる物がなく、だから、博物館長ではなく、情報文化大臣が日本へ来たのだと、アフガニスタンの文化事情を納得する。
 希望が見えたのは、地方に多くの史跡が埋まっていると聞いたとき。文明の十字路であるアフガニスタンには、イスラム文明以前、一千年前の仏教、ゾロアスター教などの遺跡が地方に眠っているという。今イタリアが発掘中だが、5万ドルで博物館を建てることができ、それらの遺跡が保存できるから、日本からもぜひ発掘にきてほしいとラビーン情報文化大臣は熱く語った。イスラム男性に共通のひげを蓄えず、とても端正で、ユーモアを交えて話す大臣は洗練されていてすてきだ。
 休憩時間、考えながら歩いていると、何やら大きな声がする。タジキスタンの代表団だ。「カブル博物館を破壊したのはアメリカだ。アフガニスタンの大臣は真実を語るべきだ」と抗議しているのだという。抗議を受けている主催の日本人男性が「すみません」と、英語で謝っている。そばの通訳に聞いた。「彼は何語を話しているのですか?」「ロシア語です」「個人としてあなたはどう思いますか?」「アメリカガ破壊?う〜ん、あり得る話ですね」事情通だと一般の判断とは違うようだ。
 これはアフガニスタンの情報文化大臣に確認せねばーと、残り少ない時間に大臣にインタビュー。「カブル博物館を破壊したのは誰ですか?」大臣は断言した「テロリスト、タリバンです」さあ困った。真実はどこにあるのだろう。
 世界で多くの真実が解き明かされずに時がすぎていく。ニューヨークテロも、北朝鮮の拉致問題も、日本の経済の行方も・・・21世紀の早い時期に真実がはっきりして、気持ちのいい歴史を残していきたいものだけどーー新しい年に期待したい。

 

 弱くて愛されるチーム     高嶋紀子
              
 
 イタリアのどこかの街で何気なく目にとまったポロシャツは、赤と黒のたてじまだった。赤黒のよこしまのシャツは日本でも見かけるけれど、たてじまがおもしろい。衿は黒だ。価格も高くない。イタリアの思い出に買うことにした。早速着てローマの街を歩くと、なんだか人が振り返る。にこっと笑って「ミラ〜ン」と言う。「??」。
 イタリアの航空機「アリタ〜リア(と現地では発音していた)」のタラップを上がっていくと、迎えてくれた女性のフライトアテンダント(客室乗務員)が微笑みながらまた「オ〜 ミラ〜ン」高嶋紀子はまた「???」
 帰国後そのポロシャツを梅雨時に着ていて気がついた。さらさらして何て着心地がいいんだろ。色も合わせやすい。愛用しているうちに少しくたびれてきた。「よし、次はおなじものを2着買うぞ!」次のイタリア行きが決まったとき、いちばんにメモしたのはそのシャツだ。ローマ、フィレンツエ、ミラノ、ナポリと着く都市ごとに、赤黒たてしまシャツを求めて、あっちへうろうろ、こっちの店へひょいひょい。仕事よりも、世界遺産よりも、赤黒たてしまシャツを探す旅だったような気がする。しかし同じデザインのものは見つからなかった。代わりに、ミラノの裏町、老姉妹の小さな店で、長年探していた使い勝手のいいバッグを見つけて買えたのは、ラッキーだったけど・・
 最近大学でイタリア人の親切なR先生に、長年の疑問を聞いてみた。「ミラ〜ンって何ですか?」すでにおわかりの賢明な読者も多いだろう。「イタリアのサッカーチームですよ」と、シチリア出身のR先生。「あ〜 そうか」サッカーオンチの高嶋紀子もやっとわかった。あのポロシャツはミラノチームのユニフォームだったのだ。しかし、なぜミラノ以外の街でも、みんながあんなに声をかけてきたんだろ?
 「ミラノチームってそんなに強いんですか?」「いや、弱いですよ。でも人気があるんです」「弱いけど愛されているチーム?」日本にもそういう野球チームがあったっけ。ワールドサッカーではミラノチームの選手もイタリア国民の声援を受けて大いに頑張ることだろう。